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核実験の爪痕-ネバダ核実験場-

 

47年間で1,051回におよぶ核実験を実施

 

ネバダ核実験場は、軍事、非軍事での核爆弾の使用を目的に1950年に設立されたアメリカ国内にある主要施設です。1945年から自発的核実験停止が履行される47年の間、アメリカは1,051回におよぶ世界的な核実験を実施しました。そのうち925回はネバダ核実験場で実施されています。

ネバダ核実験場 1945年-1949年

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解説

核実験の残した爪痕は、右側のネバダ核実験場のユッカ・フラットの画像に色濃く表れています。画像は、実験が行われた603地点を5年単位で表示しています。詳しい内容は、年表をクリックすると閲覧できます。各ページの抄訳を簡単にご紹介します。

1945年-1949年
1945年7月16日、広島・長崎への原爆投下につながる「トリニティー」の実験が行われ、アメリカは核の力を手にしました。核兵器へのニーズは安全な実験場の確保へと進み、ビキニ環礁を含む太平洋での核実験を経て、アメリカ国内での実験場設置が検討されるようになりました。

 

1950年-1954年

ネバダ核実験場 1950年-1954年

1950年12月18日、トルーマン大統領は南ネバダ州にネバダ核実験場の設置を承認。設立後の4年間に、ユッカ・フラット一帯で40回の爆発が確認されています。初期の実験は主に搬送システム(発射装置を含む)と爆発力の向上に焦点が当てられました。核爆発のパワーは、1948年から1952年の間に25倍にまで増強されました。

1955年-1959年

ネバダ核実験場 1955年-1959年

政府は、1945年から1962年の間に、22万人におよぶ軍人や民間人が何らかの形で実験に参加していたと発表しています。1952年には、イギリスによる初の核実験が、続く1958年には核融合装置の実験が実施されました。1957年にはソビエト連邦(以下、ソ連)が世界初の人工衛星スプートニクの打上げに成功したことで、弾頭ミサイルへの脅威は爆撃機や兵器開発への懸念に繋がっていきました。1958年、アメリカ・イギリス両政府は、相互防衛協定の一環としてネバダ核実験場での共同核実験の実施に合意しました。

 

1960年-1964年

ネバダ核実験場 1960年-1964年

1958年から1961年までの核実験一時停止期間を経た1962年、ネバダ核実験場では年間69回もの実験が実施されました。1961年初頭には、地表掘開などの平和的用途に核爆発エネルギーを利用する試みであるプラウシェア計画が開始されました。1961年はベルリンの壁建設、アメリカによる大陸間弾道ミサイルの開発により東西冷戦が過熱した頃でもあります。1962年10月、キューバでソ連のミサイルが発見されたことにより、世界は核戦争の危機に直面します。翌年、アメリカ、イギリス、ソ連は核実験を地下実験のみに限定することに合意。1960年と1964年にはフランスと中国がそれぞれ初の核実験を実施しました。

 

1965年-1969年

ネバダ核実験場 1965年-1969年

ネバダ核実験場での実験は、爆発力と兵器の小型化、ミサイル搬送の信頼性の向上を目的としたアメリカの戦略計画を顕著に表しました。戦闘機の安全面では、弾頭の危険性を未然に防ぐ機能の向上がより考慮されるようになりました。1967年、宇宙空間での核兵器使用禁止で合意し、トラテロルコ条約により中南米地域での非核化が決定しました。またこの年、イスラエルによる初の核兵器開発が報道されました。翌年には、核拡散防止条約がアメリカ、ソ連、イギリスの間で調印されました。1967年にイスラエルによる初の核兵器開発と中国による初の核融合装置実験が実施され、翌年にはフランスがそれに続きました。

 

1970年-1974年

ネバダ核実験場 1970年-1974年

アメリカ、ソ連、他46ヶ国が参加し、核拡散防止のための取り組みが合意されました。1972年、アメリカとソ連は第一次戦略兵器制限交渉に調印し、戦略的弾道ミサイルに対する軍備拡張を行わないことを決めました。主な目的は、防衛力を制限することで戦略核兵器配備の必要性を抑制することにありました。1973年、プラウシェア計画は27回におよぶ核実験と非核実験の末に終結。1974年には、地下核実験における核出力150ktへの制限、弾道迎撃ミサイルの配備削減にアメリカとソ連が調印しました。同年、インドが初の核実験を実施しました。

 

1975年-1979年

ネバダ核実験場 1975年-1979年

1976年、アメリカとソ連は平和目的地下核爆発の制限に合意。翌年、核物質の輸出、譲渡に関する保障措置の世界標準が制定されました。1979年、第二次戦略兵器制限交渉で戦略核兵器運搬手段、複数弾頭化ミサイルと巡航ミサイル数量抑制が決まりましたが、履行されませんでした。1979年、南アフリカが最初の核兵器を開発しました。

1980年-1984年

ネバダ核実験場 1980年-1984年

レーガン大統領は、核兵器を含む大幅な軍事増強にむけたミッションに着手しました。1983年には、ソ連の核兵器からアメリカおよび同盟国を守るために戦略防衛構想を開始しました。

1985-1989年

ネバダ核実験場 1985年-1989年

1886年にレイキャビックで行われた会談で、全ての弾道ミサイル廃棄に向けた議論が開始されましたが、合意には至りませんでした。1987年、アメリカとソ連は中距離・短距離ミサイルと中距離核戦力全廃条約に合意。1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊しました。

1990年-1995年

ネバダ核実験場 1990年-1995年

90年代初頭は、アメリカとソ連(ソ連崩壊後はロシア連邦)による弾頭配備削減の条約交渉が行われました。1992年の核実験一時停止から、ネバダ核実験場は非核地域に形を変える一方、必要に応じて実験ができる状態が保持されています。1990年、アメリカ議会は、核実験が原因で癌などの重篤な病気を発症した政府関係者、民間人、軍人に対し、一部賠償を行う放射線被ばく補償法を採択しました。合計約20億ドルが4万人以上の原告に支払われています。

 

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掲載日

  • 2015年3月10日